日記 - 2014-03

2014-03-19

AZ-Prolog

AZ-PrologというProlog処理系を知って、あずにゃんprefix……!とか言って喜んでいたら、どうもほんとに人名の「梓」から来ていたらしい。

作者の長女が梓ちゃんらしいです。

梓という名前の人が存在する以上、長女が梓というケースが存在することになんら不思議はないはずですが、それでも梓という名前の娘をもつ人がいるという事実を思いもよらない形で突きつけられ、かなりの衝撃を受けました。

だって娘が梓ですよ、娘が。彼女とか妹じゃなくて娘が梓って相当すごいことじゃないですか。 たまたまかわいい女の子が梓だった、とかじゃなくて、自分の娘に自分で名付けて梓なんですよ、やばい。 自分で梓という名前を選んで、それが娘で、しかもProlog処理系のprefixとして使ってしまう。これ以上の展開ってそうそう考えつかない。 自分で名前をつけるということは、他の人が名前をつけることとは全く違う。自分自信の表現の一部、すなわち自分の一部です。 それが梓。これ以上何か求めようとしたら、その娘があずにゃんそのものであるということくらいしか残ってないですよ。

梓という名前の人と、けいおん!の登場人物である中野梓ことあずにゃんというのは完全に別の概念(前者が特に後者を指している場合を除く)ですが、それではあずにゃんとはいったい何かというと割と難しい問題で、 作品中に登場するあずにゃんの行動があずにゃんを規定しているのは確かですが、それが全てかというとそんなことはない。 人間なので作中で描かれていない日常もあるだろうし、それまでの人生もあるはずです。 しかし作中にない要素を二次創作などで勝手に補完したとき、それが正しくあずにゃんであるかというとあまり自信をもって言い切ることはできない。 なぜならその補完が正確であるという保証がないからです。 それでも作中の挙動から部分的に見えるあずにゃんというのはかわいいので、何らかの形で接点はもちたい。 そこで我々は作品そのものやフィギュア、イラストなどを鑑賞することを介してあずにゃんによる作用を受けているわけです。

ここでひとつの拡張可能性が見えてきます。 それは、けいおん!という作品やフィギュアなどの形で切り取られたあずにゃんを便宜上にせよあずにゃんと呼び、真のあずにゃんと同一視するのであれば、 このプロセスは名前に対して拡張することも可能なのではないかということ。 実際、真のあずにゃんを規定する一部を切り取ったものであるという点で、名前と映像やイラスト、その他作品群との間になんらの差はありません。 したがって、梓という名前はあずにゃんであると考えて問題がないことになります。

以上の点をふまえて最初の話に戻ると、梓という名前を娘につけること、これはある面から見ると、娘があずにゃんの性質をもつということに他なりません。 別に娘でなく、そのへんの石に梓という名前をつけても同じことは言えますが、娘の場合は真のあずにゃんとの共通項が多い(人間である、女の子である等)ため、 さらにあずにゃんとの一致度は高くなります。 逆に、人間であり女の子であるといった程度の共通項を満たしている物体は有り余るほど存在していますが、そこに名前という制約を加えることで、一気にその数が減少します。 すなわち、名前という性質のぶんだけその子はあずにゃんに近く、そしてこの差は無視できないほど大きいのです。 さらに、名付けるという行為は最初に述べたように、自分自身の一部を表現するということなので、この人はあずにゃんとの確固たる繋がりを得たのと同じような状態にあるのです。 羨ましい話ですね。

ここにはかつてコメントが表示されていました

2014-03-02

就活

来年で修士を卒業するらしいので就活などというものをしていて、まあそこらへんの人よりは真面目にやっていないと思うし、 実際同期や先生にも「就活やってるの?」みたいなことをよく言われるんですが、それでも結構だるくて死にそうです。 面接で研究の話プレゼンしてくれみたいなの割とつらいし、本当に就職したいのかというところもあまり分からないのでつらい。

研究の話しろと言われてつらいのは本来おかしくて、研究というのは好きでやっていることなので理論的には無限に喋れるはずなんだけど、 まあ実際のところ修士になって1年間色々と見てようやくどういう世界が広がっているのか見えてきた感じで、 自分の研究自体はあまり進んでいないので、そこについて話をしろと言われるとつらいなぁという感じです。 要するに自分が何やったか話せと言われると何もやっていないのでつらいという事ですね。 たぶん計算論的脳科学についてなんか喋ってくれとかだったらあまりつらくないんじゃないかなぁ。プレゼンという形式がそもそもつらいという要素を除いて。

もうひとつの就職したいかどうかという話は、単体ならまあ就活してデメリットそんなにないしとりあえず就活してから考えればーという感じで済むんですが、 プレゼン作るのがめんどくさいみたいな他の要素と絡むと相乗効果で無限にやる気を削いでいくのでやばいです。 まあそもそもなんで散々D進云々言われながらD進しないで就職しないのかというと、単に金が欲しいからです。 ひとつの会社で延々働くとか興味なくて、むしろしばらく過ごせるだけの金が貯まったら仕事しないで遊んで暮らしていたいと思っているんですが、 どうも社会はそういう風にできていないらしい。 なんか基本的には継続して社会に労働力を提供しつづけないといけないらしく、その代わりずっと働いていれば歳をとっても仕事と収入を保証するよ的な仕組みになっているらしい。 実際のところ今の日本が続いても仕事と収入が将来的に保証されるかというと割と怪しい気がするけど、まあ要するにずっと働いていないと相対的に不利になっていくっぽいし、 ずっと働いている感じでないと関われない仕事というのも結構あるっぽく、めんどいなぁという感じです。

みたいなことを考えると、結局遊んでるのと同じくらい面白い仕事にずっとコミットするか、とりあえずつまんないけどめっちゃ稼げる仕事を選ぶかみたいな二択になるのかなぁというのが暫定的な結論ですね。 今考えた。 自分が興味あるのはロボットなど人間とコンピュータの境界にあるような物体をいかに橋渡し役として機能させるかみたいな感じの話で、例えばOfficeのイルカみたいなのの賢い版とか、 身の回りの雑事を勝手に片付けてくれるロボットとか、まあそういうものを作りたい。 で、いわゆるWeb系とかデータサイエンス系というのはそういう自分の興味からは外れているけど給料良いのが多く、かつ技術があればいつでも戻れるような感じで、 逆に面白そうなのは新卒で入ってずっとコミットし続ける前提で関われるというタイプのが多い気がする。 この新卒縛りみたいなやつも割とめんどいけどこれはまた別に書く。

まあなんにしろ、日頃プログラムを書いて何をしているかというとほとんどは競技プログラミングという名前のネトゲをやっているだけで、 他には散発的なスクリプトを必要に応じて書き捨てているだけで、あまり生産的なプロダクトを書いたりはしていないのでそういう点でもつらいものがありますね……。

ここにはかつてコメントが表示されていました